若松城下に隣接する幕内村(現会津若松市神指町幕内)の肝煎佐瀬与次右衛門は、貞享元年(一六八四)に自らの体験と「郷談」と呼ばれる旧慣習に基づき会津地方の自然に即した農法を『会津農書』に著述している。上巻の稲作、中巻の畑作、下巻の農家事益の三巻からなる。その内容を農民たちにわかりやすく覚えやすいように和歌で綴った『会津歌農書』を宝永元年(一七〇四)に著している。さらに、当時の農業に関する語彙(農語)や農耕儀礼等について与次右衛門と農民との対話形式で著述した『会津農書附録』八巻を著している。本稿では『会津農書』『会津歌農書』『会津農書附録』を総括した概念で、『会津農書』と表記して論述したい。 『会津農書』は、わが国の農書の代表とされる宮崎安貞の元禄一〇年(一六九七)の『農業全書』より一三年も早い古典的価値を有する農書である。著者・著述年が明確な点、わが国で数多くある農書で歴史的価値もあり、農業技術史上高く評価されている。特に下巻は農民生活に関わる記載が多く、近世初期の会津地方の民俗をも見ることができる。筆者は農具や農耕儀礼はじめ衣食住に関する民俗を『会津農書』から抽出し、民俗学的研究を行ってきた。本稿は、下巻記載の「粮菜作考」・「粮菜貯」および「里郷と山郷食物助成」を基軸に、当時の会津地方の粮菜の種類および採取・加工調理とその食法について調査分析し、在地農法の一環としての粮菜作・粮菜貯を位置付けたい。その分析・比較資料として、貞享二年(一六八五)および文化四年(一八〇七)の風俗帳の記載と、他地方の農書類から「糧物」の記載と、福島県内の近世の「かて物」に関する資料と、『会津農書』に記載された植物名の照合を試み、その採取法や加工調理法と食法などを明らかにしたい。 『会津農書』には粮菜確...
application/pdfこれまで中世村落の一年は、農事暦が形づくる農民の四季として描かれてきた。しかし、農業に内部化しない外部的複合の生業パターンをもつ海村においては、海辺という立地環境に応じた...
application/pdf6世紀末から10世紀にかけて,東北北部から北海道央ではいわゆる末期古墳が造られていた。90年近い末期古墳の研究史の中で,近年特に注目されている三つのテーマについて再検討を...
application/pdf本稿では神事における廃務の検討から、天皇の在り方や朝廷の神祇祭祀の理念に対する姿勢の変化を検討する。廃務は本来儀制令に日蝕や国忌で行うものとして規定されたものだが、九世紀...
若松城下に隣接する幕内村(現会津若松市神指町幕内)の肝煎佐瀬与次右衛門は、貞享元年(一六八四)に自らの体験と「郷談」と呼ばれる旧慣習に基づき会津地方の自然に即した農法を『会津農書』に著述している。上巻...
本稿では,百済三書に関係した研究史整理と基礎的考察をおこなった。論点は多岐に渉るが,当該史料が有した古い要素と新しい要素の併存については,『日本書紀』編纂史料として8世紀初頭段階に「百済本位の書き方」...
application/pdf『日本書紀』の崇神紀や景行紀などには,上毛野氏に係わる祖先伝承が掲載されている。この現象は東国出身氏旅としては異例であるが,内容は①始祖は崇神天皇の皇子の豊城入彦命,②東...
本稿の目的は,奈良盆地を中心とした近畿地方中央部の古墳や集落・生産・祭祀遺跡の動態や各遺跡の遺跡間関係から,その地域構造を解明する(=遺跡構造の解明)ことによって,ヤマト王権の生産基盤・支配拠点と,そ...
農書は、わが国では元禄時代(1688~1703)を境に上層農民や下級武士等によって著述されてきた農業技術書である。若松城下近くの幕内村(会津若松市)の肝煎佐瀬与次右衛門は、貞享元年(1684)に『会津...
application/pdf文化一一年(一八一四)に宇和島藩領の宇和郡八代村(愛媛県八幡浜市)八尺神社の神職の家に生まれた堅庭は、地元の八幡浜本町の医師二宮春祥に医学を学んだ後、嘉永元年(一八四八)...
application/pdf明治維新史研究の中で、長州藩は、常に分析の対象とされてきた。このため、長州藩の幕末・維新期の研究は、必然的に、政治史・経済史的側面からの研究を中心としており、現在、膨大な...
application/pdf日本古代の『論語』注釈書の受容について、日本史学では『論語集解』のそれに関しては研究が見られるものの、『論語義疏』については等閑に付されてきた。このことに鑑み、『論語義疏...
application/pdf八世紀後半から九世紀前半にかけて,光仁・桓武王権は東北蝦夷の「反乱」に対し,大規模な軍事行動を起こした。いわゆる三十八年戦争である。王権は軍事的・政治的拠点として胆沢城,...
本稿は、早大教授であった故深谷博治氏が所蔵していた史料群の整理作業における中間報告である。第一の課題は、その史料群構造と現在の保存環境に至るまでの来歴を明らかにすることである。第二は、更に一歩進めて記...
application/pdf柳田國男著作中の考古学に関する箇所の集成をもとに、柳田の考古学に対する考え方の変遷を、五つの画期に整理した。 画期(一)(一八九五〜):日本社会の歴史への広い関心から考古...
本稿は、中世日本における外来技術の伝来に関して、それを可能にするための条件ないし背景や、伝来技術の移転についての試論である。第一に、国家や地域権力といった公権力が、技術の伝来に果たした役割を考察した。...
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